引越し前に済ませておきたいこと。

 4月から、今住んでいるところとは違う県で働き始める。それにあたって、近々、今住んでいるところから引っ越すが、引越し当日まで1週間を切ってもなお、したいことが山ほどあり、しっちゃかめっちゃかになってきたので、ここに書き出すことで整理したいと思う。

引越し準備について

 業者さんに頼んで引越しの手伝いをしてもらうが、当日までにもらった段ボールに荷物を詰め切っておかなければならない。これが思っていたよりつらい。大きな家具や家電などは当日業者の方が包んで運搬してくれるためそのままでよいが、それ以外の持っていきたいものはすべて詰めておかなければならない。生活に必要なものは直前に詰めればいいが、大量に積まれている本たちが大変だ。これだけで段ボール5箱は使っている。しかも一つひとつが信じられないくらい重い。こんなに本を持っていたんだなあと思う反面、当日それを運ぶ業者さんの苦労を思うと、申し訳なくも思う。

掃除について

 長いこと掃除をサボっていたツケが回ってきている。この家に住み続けて5年になるが、たまにしか掃除をしていなかったところや、毎度毎度後回しにしていたところがひどい。今も手をつけられていないのが換気扇だ。日々の調理による油汚れが蓄積されて、目も当てられない状態になっている。面倒なことを後回しにする性格がこんなところにも影響したか、と反省する次第だ。今度の部屋では、こんなことにならないよう定期的に掃除をしようと思う。

別れのあいさつについて

 バイト先や行きつけの居酒屋さんとの別れを済ませなければならない。知人に紹介されたバイト先だったが、数年にわたり長いことお世話になっている。数年にわたって関わっているお客さんとも、きちんとお別れをして去りたい。明日朝以後の出勤だし、なにかお菓子でも差し入れようか。
 行きつけの居酒屋は、お酒が飲めるようになってから数年間、お世話になっている。顔や名前も覚えてくれていて、訪れるたびに気さくに声をかけてくれたのがありがたかった。基本的に内気な性格をしている私だが、その行きつけの2軒とだけは、きちんとお別れをしたい。
 よく一緒に酒を飲んだ友人とも、もうしばらく飲みに行けなくなるから、お別れを済ませたい。今生の別れというわけではないが、教員になったらほとんど休みもないだろうし、なかなか会えないだろうから、声をかけておきたいものだ。私はこれまで、人生の節目節目で人間関係を断ち切ってきたから、今度くらいは私の数少ない友人として関係を保ち続けたいものだ。

新生活へ

 引越し準備、掃除、別れについて記述してみたが、案外やるべきことは少なそうなことがわかった。チェックリストの形だけでなく、文章として書きだすことで、頭が整理されたようにも思える。この部屋で過ごす時間も残りわずかだが、発つ鳥跡を濁さず、しっかり別れを済ませたうえで新生活を始めたいと思う。

 

あの頃のように古典が読めるようになりたい…!!

古典が読めなくなってる!?

 来月から国語の教員として働き始めるが、最近、以前と比べて古典が全然読めなくなっていることに気が付いた。はじめに自覚したのは、去年、教員採用試験に向けて勉強を始めたときだった。その頃の私は、自身の読み取り能力が衰えていることを全く自覚しておらず、かつ大学入試のころは国語が人並み以上にはできていた*1という自負もあったので、「専門科目は直前に対策を始めても問題ない」と高をくくっていた。
 そんなことだったから、専門科目の勉強を始めたのは、試験直前の6月(1か月前)だった。いざ解いてみたら、全然答えが合っていないのだ。その後も何問か解いてみたが、それでも答えが合わない。私はこのとき初めて、そもそも古典の問題文自体が読めていないのだということに気が付いた。

受験生だったころは

 私が高校三年生、つまり受験生だったころは、古典の問題はむしろ得意な方だった。しかしながら先日、受験生の時に使っていて、難なく解けていた問題集を改めて購入して問題を解いてみた。そうしたら、問題はいくつも間違えていて、その本文の内容はほとんど理解することができなかった。このことからも、古文を読む能力そのものが衰えていることは明らかだった。
 それもそのはずだ。高校生の頃の私は、古典の問題を毎日のように解いていた。受験に使う全ての教科の問題を毎日最低1題は解くようにしていたし、高校の授業でも週に3~4コマは古典を扱っていた。加えて、国語は最も得意な科目であったため、数学や世界史の勉強に飽きた時、気分転換代わりに古典の問題を解くこともあった。つまり、当時の私にとって、古典は身近な存在だったのだ。
 それに対し、大学に進んでからは、古文に触れる機会はほとんどなかった。1年に1~2コマ、演習の授業で扱う程度で、学期によっては全く古典を読まないこともあった。その数少ない古典を扱う機会においても、本文の上下に現代語訳や注釈が常に付されていたので、本文のみから内容を把握することはほとんどなかった。古典が日常から消え去ってしまったのだ。

使わないから錆び付く。

 記憶は使わない情報からどんどん引き出せなくなっていくらしい。優先度が低いため、引き出しの奥底に整理され、取り出しにくくなってしまうのだ。そのため、使わなくなった記憶をまた使えるように呼び覚ますためには、また使う記憶として呼び覚ますしかない。もしもまた当時のように古典が読めるようになりたいのなら、古典に触れることを当時のように習慣化するしかないのだ。
 教採の勉強を経ていくらか取りもどした古典理解力も、また最近錆び付いてきてしまっている。
 当時と生活習慣や日々やるべきことが変わってしまった今、全く当時のように古典の問題を解き続けるのは難しいかもしれないが、それでも少しずつでも油を注すことで、完全に錆び付いてしまわないよう、メンテナンスを心がけていきたいものだ。

*1:狭い世界で生きていたものです。。。

なかなか本を読めなくなった話

 読書記録を始めることにして、ふと、自分は中高生だった時と比べて日常的に本を読むことがなくなったなあ、と思い至ったので、今日はそれについて書いてみたいと思う。

読みたい本ならたくさんある

 読みたい本がなくなってしまった訳ではない。小説について言えば、大学に入って近代文学の授業を通して様々な文豪の本に惹かれて読んでみたくなったし、高校生の頃好きだった作家さんの新刊も読んでみたい。中高生の頃読んでいたライトノベルの続きも気になる。マンガだって以前読んでいた作品も新しく始まった作品も読みたい作品は山ほどある。他にも、いろんなジャンルの新書を読みたいし、値段が高くて買えないような学術書も、大学の図書館には途方もない冊数が所蔵されているのだから、読みたい。他にも、高校入試や大学入試の国語の問題を解いていて、その本文として採用されていた文章が琴線に触れることもよくある。読みたい本や興味を引かれる本は山ほどあるのだ。

前は読めてたのに

 そもそも、一体いつから積極的に本を読まなくなってしまったんだろうか。少し思い返してみよう。
 小学生の頃や中学生の頃は、昼休みに学校の図書室に行ったり、家に帰ってからも借りた本を読んだりと、日常的に本を読んでいた。高校生の時も、あまりクラスに友だちが多くなかったこともあり、暇さえあれば図書室を訪ねて本を読んでいた。
 高校3年生で本格的に受験勉強を始めた時、自室の本棚に参考書が増え、それまで集めていた小説やライトノベルのスペースを圧迫し始めた。100均のカゴや収納グッズをフル活用したが、それでもなお収まりきらなくなってしまった。とうとう私は、棚の大部分を占める本たちを、受験に関係ない、邪魔だとみなして売り払ってしまった*1
 その後、大学生となり、初めて、都市部の大規模な書店に行った。この時は既にバイトを始めていて使えるお金も増えたため、自分が気になった本をある程度自由に買うことができた。だが、この時買った本は、それまで買っていたような小説やライトノベルではなく、人文系の入門書だった。*2以降私は現在に至るまで、強く意識しない限り小説を書おうと思うことはなかった。

どうして小説を買わなくなったのか

 大学生になって小説を買わなくなったのは、自分のプライドが邪魔をしたからだと思う。大学に入って出会った同じ学科の学生やサークルの友人たちは、みんな頭がよさそうに見えた。そんな彼女ら/彼らを見ていると、自分がとても場違いに思えてきた。そんなことを思うものだから、本屋に行ったとき、休みの日に小説なんか読んでたらすぐに置いていかれて見放されてしまうぞ、とささやかれているような気がしたのだ。それで本屋に行ったとき、趣味であった本は買わずに、勉強のための本を買って休日読もうと考えたのだ。*3
 そんな余暇のないような試みは長くは続かず、けれどもプライドが邪魔をするので断念するわけにもいかなかった。読み切れていないのに新しい専門書を買い、それもまた読み切れないまま積み重ねまた専門書を買う。そんな繰り返しで、我が家には読めていない専門書の山ができ、今もまだ消化不良のまま残っている。

「本を読む時間」がない

 ここまで見返したように、高校生までと大学生になってからとで変わったのは、買う本のジャンルだけではない。本を読む時間自体も短くなっている実感がある。これは、高校生の時よりも「自由な時間」が増えたことが原因だと私は思う。
 高校生の頃は、朝決まった時間に学校へ行って授業を受け、昼休みを挟んでまた授業を受ける。日によって部活をしてその後家へ帰る。このサイクルだった。この時のまとまった自由時間は登下校中・昼休み・帰宅後と、限られた時間であった。この短い時間は、友だちとやり取りすることもあまり多くなかったので、ほぼ完全に一人で自由に使える時間だった。この時間を私は「本を読む時間」として定め、日々趣味の読書を楽しんでいた。
 大学生になると、一人暮らしをはじめ、下宿先から大学へ通うことになった。一年生の時点でもある程度自分で授業のコマを決められたため、毎日決まりきった時間で行動しなくなった。それに伴って、朝起きる時間は遅くなり、昼間まで眠っているときもあった。人付き合いが増えたため、サークルの部室でおしゃべりをして過ごす時間やSNSを使ったやり取りに割く時間が増えた。それ以外の時間のほとんどは「自由な時間」、つまり「何をしてもいい時間」だった。その時間は、決まりきったルーティンを失い生活リズムが崩れた私の前に「何もしなくてもいい時間」として現れた。
 つまり、高校生の頃までは、毎日の決まりきった時間の隙間の時間を「読書の時間」として定めることで本を読めていたが、大学生になると、決まった時間などほぼなかったため、うまく「読書の時間」を定めることができなくなってしまったのだ。そういうわけで、私は本を読めなくなった。

これからどうするか

 これまではどうして本を読む習慣がなくなってしまったのかさっぱりわからなかったので、「読まなくなったなあ」と漠然と感じていたが、いま、その理由が明らかになったので、対策を立てることができる。うまく「読書の時間」を定められなくなったことで読書週間が消え失せたのなら、改めて「読書の時間」を設けて実行すればよいのだ。とはいえ、言うは易く行うは難い。有言不実行となってしまわないように、無理なく計画を立てて、体調に気を遣いながら少しずつ実行していきたい。

とりあえず明日は10時から読書の時間とします!!

 

 

*1:当時の私は今よりはるかに短絡的で、また学力的にも第一志望の大学には程遠かったため余裕がなかった。そのため、受験が終わるまで箱に仕舞って保管しておくなどの方法は考えつかなかったのだ。

*2:この時かった本は今でも最後まで読み切れておらず、積読状態のままである。

*3:そんなことを続けていたら、すぐにメンタルがおかしくなって、大学もよく休むようになり、それが積み重なって卒業見送りになってしまった。この話はまたいつか気分が向いたときにでも書けたらいいと思っている。

【読書記録】子どもの「非認知能力」を育むには…

書誌情報

 

ポール・タフ 著(高山真由美 訳)『私たちは子どものために何ができるのか 非認知能力を育み、格差に挑む』(英治出版/2017.9) (Amazonのリンク)

一読した期間:3月8日-3月10日

内容

 著者の前著である『成功する子 失敗する子』(英治出版/2013.12)で述べられた子どもの「非認知能力」を育むためには何をしたらいいのか、という疑問に応えるべく書かれた本だ。

 内容は、貧困家庭の子どもや親への外部からの支援が主となっており、これに関する実践事例が複数紹介されていた。本書では、「非認知能力」を、問題演習やワークで身に付けるような、つまり明示的に教えることができるスキルとしてではなく、「子供を取り巻く環境の産物」であるとしている。

 構成としては大まかに、「非認知能力」の概要、子どもへの支援、方策に分かれている。
 子どもへの支援を紹介する部分では、幼児期(就学前)の子どもへの支援と、学校における子どもへの支援の2つに分かれているが、これは筆者が、子どもを就学前と就学中との間で分断があるものと捉えたためではない。むしろ「子供時代は連続体である」ため両者の間には共通の支援が必要であるが、制度上、就学した子供は学校で過ごす時間が親と過ごす時間よりも長くなるため、学校で支援を行う方が効率がいいと考えられるためだとしている。
 実践事例は、その背景にある心理学や社会学の知見が示されたうえで紹介されており、読者がその実践の妥当性を判断できるようになっている。
 それらを踏まえて、最後に子どもの「非認知能力」を育むための具体的な方策が著者により提案されている。

感想

「非認知能力」の涵養

 かねてより私が感じていた、〈「非認知能力」と呼ばれる能力が大事なのはわかるが、結局それはどのように育めばいいのか〉という疑問への答えの一つが提示された一冊であった。
 これまでの大学の授業でも様々な本でも、国語という教科で育むべき「思考力・判断力・表現力」は「話すこと・聞くこと」「読むこと」「書くこと」の3領域として学習指導要領に記述されており、これを育むことが大切だ、というのは何度も繰り返しいわれていることだが、それはどのように育むことができるものなのか、という問いが解消されることはなかった。*1
 しかし本書では、教員の立場から子どもの「非認知能力」を育むために、子どもに対してどのように働きかけることができるか、といった方策が示されていた。もちろん、これはアメリカの話であるから、すべての事例がそのまま日本の児童生徒にも当てはまるとはいえない。しかしながら、本書で示された概念や心がけは国や制度の違いを超えて私たちも実践し得るものだと考えられる。
 これを踏まえて、私はひとりの教員として、生徒への声のかけ方や困難に陥った生徒への助言などに気を付けていきたいと考える。教員と生徒の関係には、上下関係が付いて回る。言い換えると、生徒から見て教員は、無条件に「上」の立場の人間となってしまいやすい。このことに無自覚でいると、教員は生徒を委縮させてしまい、場合によっては生徒に敵とみなされることも考えられる。そのような状態では、教員から生徒に適切な支援などできるはずもない。そうであるから、普段の声のかけ方や助言の方法を気を付けることで、自分は生徒にとって味方であることを示し、円滑なコミュニケーションをとることができるよう心掛けたい。そうすることで、生徒にとって安心して過ごすことができ、生徒が必要とするときにいつでも適切な支援を提供することができる環境を整えておきたい。

子どもの貧困

 本書ではアメリカの貧困家庭の子どもを主な射程として論じられたが、日本においても、子どもの貧困は無関係な問題ではない。日本の貧困の多くは、相対的貧困とよばれる。これは、飢餓などの生命の危機に瀕する状態に陥り得る絶対的貧困とは異なり、直接的な生命の危機はないが、所属する社会の生活水準にみあった生活をすることはできない状態のことを指す。このタイプの貧困は、周囲の人間から見て著しく貧しさがわかるわけではないため、周囲の人間が気付くことは難しい。そのため、相対的貧困に陥っているにも関わらず、必要な支援を受けることができないままでいる家庭・子どもが多く存在するという。
 本書において、「非認知能力」は貧困状態の子どもでは十分に発達していない可能性があることが示唆されている。そのような子どもに対しては教員から適切な支援を行うことが必要であり、そうすることで「非認知能力」の発達が促され、子どもが学習に取り組みやすくなるのだという。
 このことは、日本の学校の教室にも貧困状態の子どもがいるにもかかわらずそれが見えていない可能性が大いにあること、そしてそのことに起因して、児童生徒に学力や生活上の問題が生じているかもしれないことを示唆している。そうであるから、教員は目の前の児童生徒に生じている問題を口で注意するだけではなくて、その児童生徒の背景に原因があるかもしれないことを意識し、適切な方法で改善を促すことが重要なのだ。

今後読みたい本

 本書ではいくつかの教育心理学の知見が紹介された。そのうち「動機付け」の話題と「学習のための積み木」モデルの話題は私にとってとても興味深かった。
 「動機付け」は、教育心理学の授業や教職教養の勉強などで触れていたため、知っているつもりになっていたが、「内発的動機付け」が「外発的動機付け」に変貌してしまうプロセスや、どのような条件の下「内発的動機付け」が強化されるのかなど、知らないことが多かった。
 「学習のための積み木」に関しては、全く初めてその存在を知り、目からうろこが落ちるようだった。
 これらの話題は教員として知っておかなければならない事柄だと思うし、かなり興味があるので、今後読む本の有力候補としたい。

*1:周りの人間はそんなこと思っていなさそうだったから、この疑問は私の不勉強に起因する見識の狭さゆえなのかもしれないが。

今日からブログを始めます。

軽い自己紹介

はじめまして、しょくえんという者です。
こんどの4月から私立学校の教員になる予定の大学生です。
大学は、中高生向けの国語科教員を養成する過程に在籍し、日本語学の研究室に所属していました。

ブログの方針

 私は4年間教員養成のコースに在籍していたというのに、いざ教員になろうというこのタイミングで、自らの不勉強さを痛感している。来月の今ごろ、実際の生徒を相手に授業をする自分を思い浮かべてシミュレーションをすればするほど、自身のイメージの不確かさが明確に感じられるのだ。(端的に言えばすごく不安なんです。。。)

 いまパッと思いつくだけでも、
・授業準備や教材研究において何が重要であるのか
・日々どのようにして生徒と関わるのか
・いかにして生徒の成長を促すのか
といった事柄に関する知識や知見が欠落していることに気が付く。
 少し考えてこれなのだから、自分だけでは気が付くことができないことも含めて、実際にはもっと多くのことが欠落していると考えられる。そのため、教員になる前の準備期間ともいえる今の時期に、できるだけ本を読んで知識を吸収しておきたい。もしかすると、それで来年度への不安が拭われることはないのかもしれないが、それでも、積み重ねた知識はいつか役に立つと信じて、本を読みたい。
 しかしながら、私は忘れっぽいというか、読んだだけでは覚えたことが定着しにくい頭をしているので、ただ読むだけでは知識の累積は期待できない。そこでこのブログを用いて、読んだ本の内容やそこから考えたことを読書記録のような形で残していきたい。このように、読書のインプットに加えて記録のアウトプットを組み合わせることで、知識の定着を図ると同時に、過去の自分の考えを内省的に振り返ることが容易になることが期待される。

 加えて、仮にも「国語の教員」を名乗る者(予定)でありながら、私はあまり文章を書くのが上手くない。これはひとえに、これまでの人生で文章を書く経験が(レポートや卒業論文を除いて)ほとんどなかったことが原因だと考えられる。
 これに伴って、文章を書く機会をできるだけ多く得たいから、読書記録だけでなく、雑記を取り入れたい。私は本を読むのがあまり早くなく、ある程度長い時間がかかるからだ。一方で雑記は、読書の進捗に関わらず、自分で決めた話題を比較的自由なタイミングで書くことができる。そうであるから、雑記によってできるだけ執筆頻度を上げ、文章を書く機会を確保したい。

おわりに

 上記のことを踏まえて、このブログでは主に、読書記録・雑記を中心に思ったことを綴っていくことにしようと思う。
 今後このブログがどれくらい更新され、どのような人に読まれることになるのかはわからない。多くの人が読んでくれるかもしれないし、もしかしたら誰にも読まれないかもしれない。不特定多数の人が読める媒体で物を書くのは、SNSを除くと初めてのことだから、完全に未知だ。この不安と楽しみが交錯した気持ちを大切にしながら、あくまで自分のために書くのだということを忘れずに、今後、ブログを書いてみようと思う。